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1979年4月に,ひょんな事から町田市鶴川駅前の小さなパン店を引き継ぐ。
主にサンドイッチを作り、病院・大学生協に納めていた。
有る日、朝日新聞にホシノ酵母を使った、パン作りが紹介されていた。
とても興味深く、独特の酵母でパン作りを始めたいと思い、早速星野さんを訪ねた。
問い合わせが殺到しており3月程後にやっとお会い出来て、酵母を分けてもらった。
それからが、失敗の連続で、山ほどのパンが、麻布獣医の動物達の餌となる。
何度か作っているうちに、上手く出来ると、何とも言えず良い香りと深みの有る味わいで、その味の虜になってしまう。
失敗しても失敗しても、上手く出来た時の美味しい味が忘れられず、止める事はできなかった。
そのうち、酵母の起こし方も上手になり、何とか売れるパンが出来るようになってきた。
仕事場を野津田に移した頃、生活クラブ生協のパン、チームの方から、是非国産小麦でパンを焼いて欲しいと言われた。
国産小麦なんて、うどん粉だしとても出来ないと断ったが、もう何軒にも断られているので是非にとの事だった。
農業試験場等でしらべ、農水省の知人からも情報をもらい、安定供給が可能な岩手県産のナンブ小麦に決め、試作を始めた。
作りこんで行くうちに、小麦と酵母の相性がとても良くすばらしく美味しいパンが出来る事が分かった。
嬉しくなり、是非このパンを広めなければと思い、生協のグループに配達をしたり、通販で販売をした。
そのうちにパンの作り方を、習いたい人が訪ねて来るようになり、教える事となった。
・・・それは一杯の酒とカラオケが発端でした。 高校時代の仲間に連れて行かれた町田のお店(J)が始まりといえる。彼は町田のT学園大学の教授で、連れて行かれた店は先生たちのたまり場でもあった。W大の教授や、A学院大、K学園の教授の先生が和やかに一杯飲み、カラオケに興じている店だった。
ある時、K学園のT教授が『本を書いたら』と出版社を紹介してくれた。そんなきっかけで慣れないことにチャレンジすることになってしまった。
パン作りは単に仕事にしているということだけでなく、国内産小麦粉とホシノ天然酵母でのパン作りを一つの食文化ととらえ、広めることと伝承すること。 関心を持つ方々に共通のテーマであって欲しい。又、「本のとおりにやったら出来た!」 と言わせたい。
こんな気持ちで書きあげたのが『生きているパン』です。
最初の出版から(1997年)3年経過していた。その間「ホシノ酵母」も変化していた。最初の本が参考にならないほど変わっていた。その補正の意味もあって基本のパンだけでなく、リッチなパンを合わせて紹介することにした。 どうもホシノ酵母との相性が悪いのか2000年10月に書き上げた途端に酵母が変わってしまった。
仕方がないので、本を書く口実を作ってくれているようなもの と考えることにした。 写真の撮影にあたって町田市のホテルエルシィに協力をしていただいた。テーブルの小物や食器類がふんだんに使われ、楽しい写真になっている筈。
ちなみにPART-Ⅰの一次発酵はシリンダー法を使ったがPART-Ⅱではくりやケースを使ったため、全量シリンダー法に変わった点より、見やすくなっていると思う。
ヒョンナことがきっかけで、お付き合いが始まった雨読晴耕村舎の後藤さん。
彼は京都大学出身の建築家で、自宅で設計事務所を営みながら農業を始めていた。「少ない耕作面積の田畑でも十分生活できる」というのが持論で、庭先に小さな家を建て作業場と店舗を兼ねた『糧工房』を始めていた。そんなことを本に書き始めていた。
そんなご縁で農文協さんに紹介され出版の運びになったのが経緯である。今迄とてもラッキーだったと思っている。人に支えられ、人に助けられ、人に導かれる。素人に毛の生えたようなパン屋のオヤジが3冊もの本を出版出来ただけでもすごいことだと思っている。今4冊目の原稿にすべく資料の整理にかかっているというのが現状で、今年中にはメドをつけたいと思う次第。
安全な材料で美味しいパンを作り、喜んでいただけるようなお店にしたい。 ピッコリーノのコンセプトをお店の形にしました。
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